足元に転がるものを蹴飛ばして 「あ…れ?」 リビングに置かれた棚。興味を引かれて覗いて見ると、ズラリと並んだCDやらDVDやらの隙間にレコードを見つけて王泥喜は思わず手に取った。 珍しく、そして懐かしい。 今時の若者はレコードなど知らないだろうけれど、老夫婦の手によって育てられた王泥喜には充分に馴染みがあった。ただ、その影響なのだろう、今時の音楽に耳がついていかない。それが、大切な恋人の奏でるものであっても例外はない。 「本物の、ガリュー・ウェーブの、みたいだな。」 王泥喜は、感心しながら両手の間でそれをくるりと回転させた。 所謂『LP盤』だか『SP盤』だか呼ばれている、両手で抱える程の大きさのもの。そのジャケットは裏には曲名。表に大きく響也の顔とバンド名でデザインされていた。 こうして、棚に飾ればちょっとしたポスターのようにも見えるから、用途はその辺りのようにも思えた。 にしたって、ボーカルだけを全面に出したジャケットもどうだろうと、印刷された顔を眺めて苦笑する。サングラスを指でずらした小生意気な青年は、鋭い眼差しでこちらに向けていた。僅かに上がった唇の端は随分と意地悪そうだ。 いつ頃のものなんだろう。響也の髪は短く、同じ顔形なのに何処か幼くて険しい感じを受ける。そう、今の方がずっと彼は優しく笑うのだ。特に自分を見つめる彼の笑顔はとびきりだ、などと思い至れば、頬が染まった。 ま、今も昔も、この男が綺麗であることは変わりない。 「僕に見とれてるのかい? おデコくん。」 ぽんと両肩に手を置かれ、耳元で囁かれたのがそんな言葉だったので、実際、王泥喜に異議はなかったのだれど口をついて出たのはこんな台詞だった。 「いや、レコードが珍しくて。」 しれっと返せば、あからさまにガッカリとした表情になった。 他に感想はないのかい?と視線が問い掛けてくるけれど、彼の顔に見とれるなんて、あまりにも当たり前すぎて(今更)すぎるので、敢えて言葉になどしてはやらない。 『今だって、俺の視線はレコードよりも、アンタの横顔に注がれそうになって、困ってるところなんです。』なんて、赤面せずに言える代物ではないのだ。 それでも向けられる視線が痛いから、仕方なしに口開く。なので、言葉は無意識に辛辣なものになってしまう。 「これって聞けるんですか? 何かのおまけとか?」 「おまけって、酷いなおデコくん。これは、きちんとプレスしたものだし、売り物だよ。」 「ロックとかやってるのに、随分と前時代的な事もしてるんですね。」 褒め言葉としても微妙な感じだったのは、眉を潜めた響也の顔を見れば一目瞭然だったので、流石の王泥喜も次の言葉は頭の中で推敲した。 機嫌を損ねられても、後が困る。 そうするうちに、響也は王泥喜の手の中にあったレコードをひょいと取り上げてしまった。 目を細め微かな笑みを浮かべる響也に、王泥喜は小さな予感が浮かぶ。 これは相棒と呼ばれた男を思い浮かべてるのではないだろうかと。そして、それは響也の言葉で肯定された。 「ダイアンの提案なんだ。本物のアーティストはレコード盤を必ずプレスするって言ってね、譲らなかった。あいつも拘る男だったからさ…なんて、どうして僕があいつを弁護しなきゃいけないんだよ。」 弁護士でもないのにと笑った。躊躇いが、彼の心に深く根ざした傷を示唆させる。 彼が感じているのは苦い過去なのか、それとも自責の念なのか定かではないのだけれど。 「そう言えば、これを聞かせた時に、アニキにもおデコくんと同じ事言われたような気がするよ。」 「先生が?」 「レコードの何処かいいんですか? みたいな事言われた。」 肩を竦めてみせた響也に、王泥喜もクスリと笑った。 「それなら俺も先生と会話したような気がします。でも、俺はレコードが嫌いだなって言ってませんよ。」 「そうなのかい?」 嬉しそうに笑う響也の顔が、霧人の笑い顔を思い出させた。 事務所に勤めていたからと言って朝から晩まで仕事以外の会話ばかりしていない。たまには世間話もしたし、趣味嗜好の話もしたことはある。書類整理の合間で僅かな時間だったけれど、王泥喜にとってそれは不思議とおだやかで優しい時間だった。 「デジタルの音が鮮明で好きだ…みたいな事を話しました。レコードなんて何処で聞いたんですかって伺ったら、知り合いのところでって先生おっしゃってましたけど。」 今思えば、此処で聞いたのかもしれない。今時レコードなんて再生する事でさえ、一苦労なはずだ。 「敬語…なんだね。」 え?と瞠目した王泥喜を、響也が不思議そうな表情で返した。 「おデコ君。まだ、アニキの事敬語なんだ。」 「ああ…そうですね。」 意識したことは無かったが、響也の言葉で気付かされた。犯罪者として確定した後でも、『牙琉霧人』は自分にとって先生だったのだと改めて思う。 「おデコ君は怒ってないの? アニキの事。その…色々と迷惑かけたみたいなのに」 「怒ってはいませんよ。牙琉検事だって、そうでしょう?」 辛いことも苦しい事も確かにあった。こうして、言葉にしただけでも、ズクリと胸を掴み取られるような痛みを感じる。目に見えないけれど、そこには確かに傷があり、牙琉検事も同じように痛みを感じているはずだ。 互いに口にしたことはないけれど、王泥喜には確信出来る。 「先生も眉月刑事も罪を犯した事は間違いないと思います。けど、それがずっと築いてきた思い出を全て否定しないんです。」 存在全てを拒否する事が出来たらどれほど楽なのだろうとも思う。けれども、こうして、胸が痛むのは彼等との思い出が優しく楽しかったからに違いないのだ。 自分の横には彼がいて、自分自身も笑っていた。幸せな時間は、確かに当たり前のように其処にはあったのだ。 「おデコ君は強いなぁ。」 響也は、手にしたレコードに視線を落とすと小さく息を吐いた。 「僕なんて、時々、脚をとられて転びそうになるよ。」 「転びそうになったら、蹴飛ばしてやるといいんですよ。別に大事に抱え込んでいるだけが能じゃないでしょう?」 王泥喜の言葉に目を真ん丸にした響也は、レコードを顔に押さえ込むようにしてクスクスと笑いだした。 印刷された響也よりも、遙かに可愛らしく笑う響也に、やっぱり今の方が良いなどと、秘やかに思っていれば、伺うように覗き込んで来るのに気が付いた。 「何ですか?」 「おデコ君も聞いてみるかい?」 こ・れ。とレコードを指し示す響也に、王泥喜の眉間にはあからさまな皺が寄る。 「レコードの音色は好きですけど、五月蠅のは嫌いです。」 「聞いてみなくちゃわからないじゃないか! おデコ君の好きな静かな曲も入ってるかもしれないだろ?」 「そんなの曲名みればわかるでしょ! バラードなんてひとつも入って無いです!」 異議ありと告げた王泥喜の抗議に、しかし、ふうんと響也は意地悪く口端を上げた。ジャケットの写真と重なったその表情に王泥喜はドキリと心臓を鳴らす。 しまった、これも充分可愛い。 「タイトルを見れば、曲調がわかるほどに聞いてはくれたんだ?」 「うっ…。」 やっちまったと言う表情に、響也の笑みが深くなる。この男を調子づかせるとは、なんたる失策だと王泥喜の脳裏に焦りが走った。 「じゃあ、僕がおデコ君の好きな曲だけ歌って上げるよ。ギターあっちにあるから」 レコードを棚に戻すと、響也はさっさと王泥喜の手を引いて歩き出した。 このままでは、訳のわからない愛の歌を聞かされ続けるという拷問を強いられるのはわかっていたが、響也を独り占め出来るのは正直嬉しい。 だから、王泥喜も手を放さない。 今ある確かで幸せな時間。 これだって、先ではどうなっているのかなんてわかったもんじゃないと王泥喜は知っている。だからこそ、足元に気を取られるのは御免だというのに『音が苦』という建前をすくわれてしまった脚をどう立て直すか。それは王泥喜の切実な懸案なのだ。 〜Fin
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